地場賢太郎
「高台寺いろは」
 日本人にとってなじみの深い「いろは歌」は全ての仮名を一度ずつ使用するという原則のもとに作られた「手習い歌」、または「字母歌」と呼ばれているものの代表であり、仏教の無常観を込めた完璧なメッセージになっている。時代の変遷により「ゐ」、「ゑ」などの仮名は使われなくなり、濁音、破裂音等の例外はあるが、字母歌は日本語の音節文字である仮名を全て網羅した完全なアナグラム、つまりパングラムとして成立していると言えよう。いろは47文字の組み合わせの総数は47の階乗(47×46×45・・3×2×1)、すなわち、2586から始まり0で終わる60桁の天文学的な数になるが、有限であり、たった一つの数である。今回、地場はテーマと地域から自由に発想した47の字母歌を作ったが、それらは47の階乗の組み合わせの中に、最初から可能性として存在していたことは確かである。その点で字母歌作りは創作ではなく、抽出の作業と言える。
 美術の分野でアナグラムはマルセル・デュシャンがテーマとして扱っており、彼の他の主要テーマである鏡、チェスとも絡み合っている。一方地場が17年前から描き続けている巻物では透視法、鏡が主要なテーマであるが、「巻物」を描くことと「いろはパングラム」の抽出は同じ作業の表裏の関係にある。パングラムは実は鏡像的な世界で、枠から枠への移し替え、(写し変え)によって生まれる変幻自在な世界である。「字母歌」に関わる中では時に禁忌に触れてしまうような畏れを感じることもあるが、今回の作品は、歴史の舞台となったこの地に関わった人々へのレクイエムとして自ずから出現したとの思いを地場は持っている。


プロフィール
  地場賢太郎の制作の中心をなすものは1991年より始められた巻物状のドローイング、「ライフスクロール」である。この巻物は原則、毎日描き足され、現在では14 mほどの長さになっているが、画面上には地場の30代後半から現在までの表現の推移、変化そのものが描き付けられている。最終的に地場は自分の生自体を一巻の巻物に一致させようと目論んでいる。また描き進めるに従い、表現空間は増大するので、近代絵画の瞬間的、身体的視覚表現から次第に乖離したものになって行くが、むしろ意識的に西洋的な透視法的表現、水面を使った鏡像表現などが導入され、東洋的な俯瞰図法、等角投影などと対比させられ、矛盾に満ちた空間が創り出されている。
 また制作の過程は日々フォトコピーとして保存され、そのコピーの束をもとにアニメーションの制作が意図されており、実際1993年から1998年までのコピーをもとにイギリス留学中の1998年にアニメーションが制作され、翌1999年の第1回リバプールビエンナーレで発表された。このアニメーションの前半部では5年間に亘る日々の制作の進行が、5分間に凝縮され、刻一刻と巻物が右方向に増大して行くが、逆回しになり、時間が遡る後半部分では、巻物が左方向へ短くなり、やがて消えて行く。
 作家としての地場の興味はどちらかと言えば内側、つまり無意識に向かっており、執拗な細部表現、集積、収集への執着などアウトサイダー的表現の特徴と重なるところも多い。しかし、展覧会の企画、またディスロケートなど国際的なアートプロジェクトへの支援など、外へのベクトルも力強いものがある。

moon